自室から

徒然に

作曲の道①導入

いつもCubaseで作曲しようとして一曲も完成せずに挫折してばかり。

曲のアイディアも断片的で散らばっていて嫌になる。

その理由を分析し、作曲プロセスをノウハウ化することで、

自分なりに曲を作っていきたいと思う。

①音色がチープで萎える

編曲前、音色調整前はそういうものだから仕方ない。

かといって、音色調整に走るときりがない。

いつも音色調整の方法を調べるところで挫折するパターンが散見される。

②メロディーと伴奏しか浮かばない

いざ編曲しようとしても、特に編曲する手順が浮かばないため、

ドラムを適当につける。ルート音をベースに鳴らさせてみる。

ギターあるいはピアノにコードをベタ打ちやアルペジオで弾かせてみる。

以上をして、のっぺりした伴奏に辟易して挫折する。

③メロディーがダサくて嫌になる

何度も聴いているうちに、良いと思ったメロディーが平々凡々だと思い始めて

情けなくなって挫折する。

④そもそも作ろうとしているテーマが嫌になって違う曲を作りたくなる

作っているうちに、これは作っても仕方ないなと思ってしまい、

違うコード進行を模索し始めて進まなくなって挫折する。

 

大体こんなところだろうか。

手順を決めておけば迷わず、指針を決めて進んでいけるのではないだろうか。

まずは、

"他の曲に浮気しない"

"作り始めたら短くてもいいから完成させる"

"一回浮かんだアイディアは完成させるまでとりあえず否定しない"

を念頭に置いて作っていこうと思う。

 

ちなみに作りたいのは小瀬村晶のようなゆったりとしたインストと

古川本舗のようなエレクトロニカ系ボーカルが混ざったような方向性の音楽だ。

211016_追想

初めて会った時、駅から出てきて周囲を見渡すその人の元へ、僕は照れくささを隠しながら近づいて行った。一本道になっていて、まるで恋愛バラエティの初めて出演者が邂逅する場面のようだったから、変な笑いが込み上げてきた。

 

並んで歩きながら、変な沈黙ができず自然な会話ができるように目に映る建物や道のりについて説明していた。

「歩きやすくて驚いてる」

とその人は呟いた。僕も同じだった。歩調や会話の空気感が心地良かったのだ。

 

茶店に食事に行った時、初めてマスクを取った。綺麗な人だと思った。そんな人が目の前にいるのが不思議な感覚だった。

 

動物園で初めて手を繋いだ。驚くくらいに指が、肌が馴染むような感覚で、しっくりきた。お互いの体温を感じながら歩いているとすごく暖かい気持ちになった。疲れたから少し座ったつもりの湖畔のベンチ。手を繋いだまま座っていると、幸福感がさらに増してきた。こんなことは初めてだった。当初の意図に反して何分も黙ってベンチに座っているうちに、こんな感覚になれる人は絶対に大切にすべき人だという気持ちが少しずつ明確に形を持ちはじめ、決意に変わった。予定では夜景の見えるような場所でムードが良くなったら告白する予定だったが、むしろ今しかないと思えた。その人は笑顔で頷いてくれた。気取った場所ではなく、こんなふうに自然と居心地の良さが感じられた場所で告白できて良かった。他の人にとっては何気ない場所でも、自分たちにとっては特別な場所になるから。

 

展望台に上り夜景を見ていた。余計な言葉なんてなくても幸せだった。平日だから人気もなく、ほぼ貸し切りのような状態だった。僕は髪の毛を触っていいかと尋ねた。その人は身を預けてくれた。肩に手を回して数分そのまま過ごしていた。胸の鼓動が高鳴った。

 

その晩、その人は僕のパジャマを着て隣に座ってテレビを見ていた。初めてキスをした。信じられないくらい良かった。

 

一緒に寝ているときにもキスを求められたので、布団の中で何度もした。いっぱいキスしてくるじゃんと笑われたが、求められたからしたのにと笑い返した。

 

手を繋いでいるときによく指を動かして笑いあった。

 

バレンタインデーだからと、生チョコ、カップケーキ、生キャラメルをくれた。

お返しにホワイトデーには、市販のビスケットサンド、手作りクッキー、プラネタリウムの三段構成でサプライズプレゼントをした。特にプラネタリウムは泊まったホテルのコンビニに届けておいたもので、我ながら良いサプライズができたと思う。包みを開けた時の彼女の幸せそうな顔は今も脳裏に焼き付いている。

 

映画を観に行った。映画の上映前に少しだけ頭を撫でた。上映中に手を繋いでいた。上映後にラーメンを食べながら、感想を語り合った。

 

在宅ワークの休み時間に抱き合ったりキスしたりした。出社の日にはキスをして家を出た。夜は家に急いで帰った。彼女はいつもニコニコしてこちらを見ていた。別れが近づくと、寂しそうな顔でよく部屋の中をついてきた。鏡の前では、抱き合いながら自分たちの姿を見るのは恥ずかしいので、鏡を見る側を押し付けあった。

 

カラオケに行った時に曲の歌詞に思うところがあったのか、「私はずっといなくならないよ」と伝えてくれた。別れの曲が現実にならなければ良かったのだけど。思えばいつも、「これからは私がずっと傍にいるよ。もう一人じゃないよ」と伝えてくれた。

 

行為に苦手意識があった僕が克服できるまで付き合ってくれた。優しくて、この人を大切にしようと思った。

 

一緒にいる時に、このままでは近いうちに別れが来ると悟って泣いてしまった僕を、訳も分からないだろうにずっと慰めてくれた。優しくてますます涙が出てしまった。この人は幸せにならないといけないと強く思った。その役目が自分だったら良かったのだけど。

 

目の前にあるもの、見たものについて楽しく話せる、無言でも居心地が良い、それは確かに大切なものだと思った。しかし、それ以外の目の前にないものについては極端にその人は話すのが苦手だと気付いた。

 

付き合う時、「好きだよ」と好意を伝えた。

彼女は泣いた。

別れる時、「好きだよ」と好意を伝えた。

彼女は泣いた。

211015_指がほどけたら

恋人と別れた。

理由は

①「あなたは仕事が忙しくて、結婚しても私が一人で子育てとか家のことをするようになるんだろうなあ。これからも今より忙しくなると思うし、そうなると寂しくなったり虚無感に苛まれたりしそう。家族を大切にしようとしているのは伝わってくるけれど、やっぱり忙しくて時間がない人は家族を大切にできないと思う」

②「いつも手を繋いでくれていたのに、この前会った時は手を繋いでくれなかった。私たちが会える時間は短いのに、その程度の気持ちなんだなって不安になってしまった」

と言われたのが主な理由だ。

 

①を言われた時、とても悲しくなった。ずっと立派な人になりたくて、誰かを守れる人になりたくて、そのために高校大学社会人と勉強、研究、仕事を必死に頑張り続けてきた。色々なものを捨てて進んできたのに、その結果、それが仇となって否定されることになるとは思わなかったからだ。毎日、恋人と会ったり、楽しませたりするためにも仕事を頑張ろうと思えていた。それなのに、それを言われて以降、働いていても自分が何をしているのかよく分からなくなり、空しいまま働くようになってしまった。

それでも相手に寄り添おうとした場合、僕はどんな行動がとれたのだろう。

転職する?しかし、それではもし今より労働環境が悪くなったらどうする?そもそもそんな不安定な働き方では、それこそ家族を守る余裕がなくなってしまうかもしれない。

仕事を減らすように働く?しかし、それでは周囲の期待、信頼に全力でこたえようとしてきたこれまでの自分の生き方に反する。誰か一人のために、他の人からの信頼を犠牲にする。それは間違っているのではないかと思う。相手がこれまで築き上げてきた周囲からの信頼、努力を奪ってまで、自分に尽くしてもらって、それで愛を感じる、そんな愛は僕は間違っていると思う。

 

②手を繋ぐという行為だけが愛情の度合いを示すわけでもないと思う。愛情は細かな部分に現れる。そういうところを汲み取って貰えなかったのはひどく悲しい。一度だけ繋がなかったら、それでもう駄目だという判断を下されたことも寂しくなる。

「向上心のないものは馬鹿だ」というKのセリフがあるが、向上心というものがない人間は変わろうとしないということ。初めから変わろうとしないということは、人は変わることができないと考えているということ。だとすると、他者の失敗に対しては、向上心がある人の方が寛大であると言えよう。

 

書いていたら、なんだか理論武装してばかりの自分が嫌になってきた。こうやって、自分を理屈で正当化してしまうから、僕は一人なのだ。

210926_物事の感じ方

 物事の感じ方が人それぞれなのは当たり前。好きなものや好きなことが人それぞれなのは当たり前。しかしながら、ある程度は誰もが共通の感じ方をする領域もある。問題は、誰しもがこの領域の境界線を見誤りがちなところにある。

「こんなにも良いものなのだから人にも教えてあげよう。これは間違いなく良いものだ。こういう点やこういう点でこう感じられるから良いものだ」

 この善意のつもりの行為こそが時には危険である。むしろ、意図とは裏腹に他者にとっては悪意と成り得る。 

 前置きはここまでにして、最近の僕の悩みを書こうと思う。悩みと言えど、自分でも上手く言葉にできてはいないが、心では感じているはずなので、できる限り努力してみる。

 最近、自分の好きなことが周囲と合わないことに葛藤を覚えている。自分の感覚は大切だ。だから、無下にはしたくない。

 例えば、ある本を読んだ時、ある音楽を聴いた時、ある映画を観た時、この演出が素敵だとか、この表現が好きだとか、感じるところが沢山ある。

「こういうところが良いと思うから僕はこの作品が好きだ」

そう語ったとしても、興味のない人にはとことんどうでもいいことなのだ。

「そういう物事の見方を自分はしないから、変わってるね」

と言われることすらある。

 また、些細なことでも真剣に悩んでしまったり、他人の感情に振り回されて自分の感情まで傷ついてしまった時、一人で勝手に落ち込んでしまう。そんな気持ちを誰かに伝えても理解はされず、

「考えすぎだよ」

と声を掛けられる。確かに考えすぎだよと言われて、心が救われることもある。だけど、こんなことでいちいち躓いてしまう自分はおかしいのだろうか、こんなことで嬉々として、一人で生きている自分は間違っているのだろうか。そんなふうに息苦しさを感じることがよくある。

「依存すればするほど、自立する」

「好きなものは多ければ多いほど良い」

好きなもの、心の拠り所が多ければ多いほど、自分の感覚を大切にして、感受性豊かに生きられる。そう考えていた。だからこそ、誰かの好きなものには積極的に触れることを心掛けてきた。誰かが好きなものというのは必ずそこにそれなりの理由があるからだ。そんな力を持った物事に触れないで置くなんて、自分としては耐え難い。ところがSNSを開くと、数えきれないほど多くの人々の好きや嫌いがあちらこちらと毎日飛び交っている。その一つ一つに作り手の気持ちも、受け取り手の気持ちも渦巻いており、僕はそれを全ては享受しきれない。そんな情報量の渦に飲まれもがいているうちに、何が良いものなのか、何が本当に好きだと胸を張って言えるのかよく分からなくなることがある。好きなことを語っても、受け入れられないのであれば、自分の中で留めておくべきだろう。しかし、受け入れられなければ、僕はこの感覚を誰とも共有できず一生孤独だろう。

 単純に、好きとか苦手とかそういうことを考えることに疲れたんだ。でも、自分がどういう人間でどういうことを考えているのかを素直に開示しようとすると、そういう話になってしまう。自分らしさが否定されるくらいなら、必要以上に他人と関わりたくなんかない。自分の感覚を信じられなくなるくらいなら、独りで自分の感覚を守りたい。

210925_思考の波

 最近、思考の波に意識が追い付けないことが多い。ふと思い浮かんだ事柄について思考を張り巡らせようとするが、十分深く考える前に被さるように別の事柄が頭に浮かぶ。するとそちらに意識が持っていかれて、先に考えていた事柄は中途半端なまま宙に浮く。それがとめどなく起こり、支離滅裂な思考をし続けることになる。あまりにそれが頻繁に起こりすぎて、眩暈を伴うことすらある。

 これを解消するためには、恐らく思考を言語化して書きだして整理することが有効だと思う。支離滅裂な思考のまま日々を送っていると、自分が今何を感じ、何を考えて過ごしているのか分からなくなってしまう。自分の感情の居場所を見失ってしまうと、いよいよ思考酔いが始まる。

 忙しい日々の中では、時に感情は不必要であるし、腰を据えて自分の考えを綴る機会を確保することも難しいであろう。しかし、だからこそ定期的に無理にでもアウトプットする場は作るべきだと思う。なぜなら、困難であるということを理由にし、言葉として明確化できていない思考は一旦保留にする癖がついてしまうと、再開されることは到底ないからだ。すると、思考の残滓によって、漠然とした焦燥感だけがまとわりつき、吐き気と眩暈を及ぼす。

 また、思考の深化を妨げる要因として、他者の目がある。他者の目を意識した途端、そもそもありもしない他者の価値観を一方的に作り出し、思考が忖度を始める。そこでこの場ではできる限り自分の感情に対してはフラットに向き合いたいがために、他者の存在は無視することにする。日頃、気を遣いすぎている鬱憤を晴らすかの如く、思いのままに書こうと思う。

 目安としては一週間に一度。金土日の間に一回かければ御の字だ。もちろん、万が一週報を書くことがきっかけとなり、堰き止めていたダムが決壊するように、思考の洪水が起こった場合、一回と言わずいくらでも記事を書いて良い。それこそが、このブログの目的なのだから。