自室から

徒然に

210926_物事の感じ方

 物事の感じ方が人それぞれなのは当たり前。好きなものや好きなことが人それぞれなのは当たり前。しかしながら、ある程度は誰もが共通の感じ方をする領域もある。問題は、誰しもがこの領域の境界線を見誤りがちなところにある。

「こんなにも良いものなのだから人にも教えてあげよう。これは間違いなく良いものだ。こういう点やこういう点でこう感じられるから良いものだ」

 この善意のつもりの行為こそが時には危険である。むしろ、意図とは裏腹に他者にとっては悪意と成り得る。 

 前置きはここまでにして、最近の僕の悩みを書こうと思う。悩みと言えど、自分でも上手く言葉にできてはいないが、心では感じているはずなので、できる限り努力してみる。

 最近、自分の好きなことが周囲と合わないことに葛藤を覚えている。自分の感覚は大切だ。だから、無下にはしたくない。

 例えば、ある本を読んだ時、ある音楽を聴いた時、ある映画を観た時、この演出が素敵だとか、この表現が好きだとか、感じるところが沢山ある。

「こういうところが良いと思うから僕はこの作品が好きだ」

そう語ったとしても、興味のない人にはとことんどうでもいいことなのだ。

「そういう物事の見方を自分はしないから、変わってるね」

と言われることすらある。

 また、些細なことでも真剣に悩んでしまったり、他人の感情に振り回されて自分の感情まで傷ついてしまった時、一人で勝手に落ち込んでしまう。そんな気持ちを誰かに伝えても理解はされず、

「考えすぎだよ」

と声を掛けられる。確かに考えすぎだよと言われて、心が救われることもある。だけど、こんなことでいちいち躓いてしまう自分はおかしいのだろうか、こんなことで嬉々として、一人で生きている自分は間違っているのだろうか。そんなふうに息苦しさを感じることがよくある。

「依存すればするほど、自立する」

「好きなものは多ければ多いほど良い」

好きなもの、心の拠り所が多ければ多いほど、自分の感覚を大切にして、感受性豊かに生きられる。そう考えていた。だからこそ、誰かの好きなものには積極的に触れることを心掛けてきた。誰かが好きなものというのは必ずそこにそれなりの理由があるからだ。そんな力を持った物事に触れないで置くなんて、自分としては耐え難い。ところがSNSを開くと、数えきれないほど多くの人々の好きや嫌いがあちらこちらと毎日飛び交っている。その一つ一つに作り手の気持ちも、受け取り手の気持ちも渦巻いており、僕はそれを全ては享受しきれない。そんな情報量の渦に飲まれもがいているうちに、何が良いものなのか、何が本当に好きだと胸を張って言えるのかよく分からなくなることがある。好きなことを語っても、受け入れられないのであれば、自分の中で留めておくべきだろう。しかし、受け入れられなければ、僕はこの感覚を誰とも共有できず一生孤独だろう。

 単純に、好きとか苦手とかそういうことを考えることに疲れたんだ。でも、自分がどういう人間でどういうことを考えているのかを素直に開示しようとすると、そういう話になってしまう。自分らしさが否定されるくらいなら、必要以上に他人と関わりたくなんかない。自分の感覚を信じられなくなるくらいなら、独りで自分の感覚を守りたい。